私は九州人ということもあり、子どもの頃から方言が身近に存在していました。成長後、地元を離れた時、標準語だと思っていた言葉が実は方言だと知って驚いたり、話し言葉から同郷出身者が分かって何となく嬉しかったりと、方言にまつわる思い出も結構あります。そう言えば、メダカは理科教育が広がるまで<メダカ>という統一名がなく、方言による呼び名が日本全国に五百個近くあると知った時は衝撃だったなぁ。
作中に方言が出てくる小説もたくさんあります。ぱっと思いつくのは、坂東眞砂子さんの『狗神』と、瀬尾まいこさんの『戸村飯店青春100連発』。前者は陰惨な土着ホラー、後者は後味爽やかな青春小説ですが、どちらも方言がうまく使われていました。小説で方言が使われると、標準語より感情が表れやすい分、暗い作風はより陰気に、明るい作風はよりユーモラスになる気がします。先日読んだ小説でも、方言がいい仕事をしていましたよ。佐藤青南さんの『ある少女にまつわる殺人の告白』です。
こんな人におすすめ
・児童虐待をテーマにした小説に関心がある人
・インタビュー形式の小説が好きな人

暦の上では秋になり、店先に並ぶファッションアイテムも秋を意識したものが増えました。とはいえ、気候はまだまだ夏そのもの。半袖シャツも、帽子も、キンキンに冷えた飲み物も、当分手放せそうにありません。
小説を読むことの一体何がそんなに楽しいのか。人によって答えは様々でしょうが、ラストの面白さを堪能したいから、と答える人は多い気がします。感動的なフィナーレだったり、衝撃的などんでん返しがあったり、終わったはずの恐怖が再び甦ってきたり・・・現実世界にはそんなにはっきりしたオチがない分、小説で味わいたいと思うのも当然です。
バラエティ番組、大好きです。時に悲惨な出来事を映さざるを得ないニュースや、一度見逃すとストーリーが分からなくなる可能性があるドラマと違い、適度に陽気で、適度に気軽。その日の気分次第でチャンネルを合わせれば、難しいことを考えずさらっと楽しめるところが魅力です。
クローズド・サークルものの定番シチュエーションといえば、洋館、辺鄙な場所にある村、孤島の三つだと思います(すべて交通網・連絡ツールが遮断されていることが前提)。この三つの内、一番行き来するのに労力が要るのは、孤島ではないでしょうか。洋館や僻地の村の場合、死ぬ気で頑張れば自分の足で移動可能ですが、孤島の場合、どうにかして船等の移動手段を確保しなければなりません。となると、操縦は誰がするのか、エンジンは無事なのか等の問題が生じ、物語がよりスリリングなものになります。
人は時に<恐らく絶対実現不可能だろうけど、願わずにはいられない夢>を見てしまうことがあります。世界中の富をすべて手中に収めてしまいたい、かもしれない。片思いの相手が一夜にして自分に夢中になればいいのに、かもしれない。人によって願う夢も様々でしょうが、<亡くなった人が甦ればいいのに><死んでもまた生き返りたい>と思う人は相当数いそうな気がします。
私が子どもの頃、前世をテーマにした漫画やアニメが人気でした。その流れで、「自分の前世は何だったのだろう」と考えたことも一度や二度ではありません。外国人だったり、特殊な能力を持っていたり、異世界の住人だったり・・・今では<中二病>と呼ばれてしまうのでしょうが、あれこれ空想を巡らすのは楽しかったです。
<猟奇的>というのは、本来、<奇怪・異常なものを強く求める様子>を指す言葉です。現代では、もともとの意味から少し離れ、<残酷な><グロテスクな>という意味で使われることが多いですね。特に、遺体が激しく損壊されていたり連続殺人だったりする事件を<猟奇殺人>と表現するケースが多いと思います。
私はこの十年ほど日記をつけ続けています。日付、天気、その日の出来事と食事のメニューを書いた数行程度のものですが、後日、過去の記憶が曖昧な時に振り返ることができて便利ですよ。たまに昔の日記を読み直してみると、「あ、そういえばこんなことがあったっけ」「私、五年前と同じことしてるじゃん」等々、色々と思うところがって面白いです。
現実に起きた出来事とフィクションとをいかに上手く絡めるか。それは、面白い物語を作る上で重要な要素です。イエス・キリストがキリスト教の始祖であること、徳川家康が江戸幕府を開いたこと、ドイツにアドルフ・ヒトラーという独裁者が存在したこと。すべて歴史的事実であり、なかったことにすることはできません。