はいくる

「能面検事の死闘」 中山七里

<無敵の人>という言葉をご存知でしょうか。二〇〇八年、実業家であり論客のひろゆき氏が使い始めたインターネットスラングで、失うものが何もないため躊躇なく犯罪に走る人を指すのだそうです。つい魔が差し、一瞬、「こいつをぶん殴ってやりたい」とか「ここで暴れ回ったらすっきりするだろうな」とか思ってしまうのは誰でもあること。ただ、実際に行動してしまうと犯罪者となり、家族や仕事、築いた財産を失う可能性があります。そこで多くの人は罪を犯すことを思いとどまるわけですが、失いたくないものを持たない人間は、「もうどうにでもなっちまえ!」と破滅的な行動に走ってしまうことがあり得ます。二〇〇一年の附属池田小事件や、二〇一九年の京都アニメーション放火殺人事件等、実際に大惨事となったケースも少なくありません。

社会の耳目を集める存在なだけあって、無敵の人は多くのフィクション作品に登場します。作品の知名度として有名なのは、映画『ジョーカー』のアーサー・フレック辺りでしょうか。どん底の男が良識を手放し、ジョークとして凶悪犯罪を起こしていく様は、決して創作と言い切れないほどの迫力と臨場感がありました。さすがにアメコミのヴィランほどではありませんが、今日取り上げる作品にも、社会を混乱に陥れる無敵の人が登場します。中山七里さん『能面検事の死闘』です。

 

こんな人におすすめ

・『能面検事シリーズ』が好きな人

・<無敵の人>を扱った作品に興味がある人

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人で賑わう駅前を男が急襲、七名が犠牲となった無差別殺人事件。逮捕された男・笹清は、自身を<就職氷河期の犠牲者><無敵の人>と称し、あろうことか賛同者を集めてしまう。さらに、時置かずして大阪地検で郵便物が爆発し、多数の重軽傷者を出す事態が発生。郵便物の送り主<ロスト・ルサンチマン>は、笹清の釈放を求める犯行声明を発表した。一級検事の不破と事務官の美晴は事件を担当することになるが、なんと不破が爆破事件に巻き込まれてしまい---――負の連鎖を止めることはできるのか。司法と犯罪の戦いを描く、『能面検事シリーズ』第三弾

 

表情を一切変えない冷徹な仕事ぶりから<能面>とあだ名された不破検事と、その鉄面皮ぶりに圧倒されつつ食らいついていく事務官・美晴のコンビが出てくるのも本作で三作目。あらすじからも分かる通り、本作は不破検事が事件の被害者になってしまうという、衝撃の展開を迎えます。一作目『能面検事』でも狙撃されていますが、こちらは数日であっさり復活。対して本作では意識不明の重体に陥っており、美晴はたった一人で事件に挑むことになります。てっきり爆破事件の次の場面ではピンピンしていると思っていたので、かなりショッキングでした。

 

岸和田駅にて、男が車で突っ込んだ末に刃物を持って暴れ回り、七人が犠牲となる無差別殺人事件が発生します。逮捕された笹清は、「自分は就職氷河期世代に生まれたせいでまともな仕事に就けず、どん底だ。もはや失うものなどない無敵の人だ」と主張。一定の支持者が生まれ、世論が割れる中、大阪地検に送付された郵便物が爆発し、六人の重軽傷者が出てしまいます。爆破事件の犯人は<ロスト・ルサンチマン>を名乗り、「笹塚を釈放せよ」という声明を発表。笹塚を担当することになった一級検事の不破、事務官の美晴が粛々と仕事を進めていく中、続いて起きた爆破事件に不破が巻き込まれ、重傷を負う事態に・・・不破が戦線離脱し、一人で事件に臨むことになった美晴は、果たして使命を全うすることができるのでしょうか。

 

前作『能面検事の奮迅』が政治絡みの事件だったのに対し、本作でテーマとなるのは、いわゆるロストジェネレーション世代生まれの犯人が起こした事件です。バブル崩壊により就職先が激減し、正社員として働くことができず、結果、ろくな人生を歩むことができなかった・・・無差別殺人を犯した笹清の主張は反吐が出そうなほど身勝手ですが、いつの世も、こういう身勝手さがある種の賛同を集めてしまうこともまた事実。作中でも、ネット上には笹清に同調する意見が溢れ、ついには模倣犯や、釈放を求めるテロ行為まで発生してしまいます。凶悪事件を起こした犯人に対し「気持ちは分かる」「あの犯人も犠牲者」といった声が上がることは現実に起こり得るため、この展開は(テロはともかく)フィクションと言い切れないほどリアリティありました。

 

でも、理想論だと言われるかもしれないけど、私はやっぱり<悪いのは犯人>で貫くのが一番だと思ってしまいます。そうじゃないと、被害者は踏んだり蹴ったりじゃないですか。作中の犠牲者達も、真面目な勤め人だったり、思いやり溢れる母親だったり、勇敢な女子高生だったり、両親の鎹だった息子だったりと、犯人に対して何一つ悪いことをしていない真っ当な人ばかりです。命こそ助かったものの指を失い、今後恐らく今まで通りに仕事ができない事務官も痛ましかったなぁ・・・犯人の言い分が何であれ、一番寄り添われるべきは被害者。これは絶対不変だと、強く主張したいです。

 

本作の中で、そうした感情面をどんどん出してくれるのが、不破との凸凹コンビの片割れである美晴です。あまりに感情豊かすぎて一部の読者からは不評のようですが、彼女の未熟な部分を不破がいつも一刀両断してくれるので、個人的には許容範囲内。おまけに今回は、昏睡状態の不破に代わり、美晴が主体となって笹清と対面しなければならなくなります。美晴相手だと途端に舐め腐った態度を取る笹清の憎たらしさときたら!こういう苦境にもきっちり立たされるから、美晴にあまり悪感情を抱けないのかもしれません。ラスト、不破の意外な一面を見た美晴は、今後事務官として一回り成長できるのかな。

 

ところで、本作と二作目の表紙って、もしかしてイラストレーターさん変わりました?『能面検事の奮迅』の表紙に描かれた不破は渋めの堅物という感じなのですが、本作では意外に若々しいイケメンになっていて、ちょっとびっくり。同じ中山ワールドの登場人物でも、犬養や御子柴と違ってあまり容姿に触れられることのないキャラなので、色々と想像する余地がありますね。

 

どんな理由があろうとも、その一線を踏み越えちゃいけない度★★★★★

不破の人間味ある姿が胸に迫る・・・度★★★★★

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コメント

  1. しんくん より:

    毒島もそうでしたが、表紙に描かれた主人公が変わっていてイメージが変わることがあります。この場合、後の方がよりしっくりイメージにハマります。
    自分も団塊ジュニア世代、ロスジェネ世代で1つ間違えれば~と思うと複雑な気分になりながら読んでいました。
    事件の本質、そして布施検事の意外な一面を見て作者が何を訴えたのかと考えさせられました。

    1. ライオンまる より:

      ロスジェネ世代が通って来た時代を想像できるか否かで、作品の評価が変わりそうですよね。
      ラストの検事の姿はなんとも切なくて・・・
      上司の人間味ある面を見た美晴が、今後、どんな成長を遂げるのかも気になります。

  2. オーウェン より:

    こんにちは、ライオン丸さん。

    中山七里さんの「能面検事の死闘」は、大阪地検の不破俊太郎一級検事と事務官の惣領美晴による、能面検事シリーズの3作目の作品ですね。

    今回の事件は、通り魔事件と、爆発物によるテロ事件。
    大学は出たものの、就職先は無く引き籠りになった笹清と言う男が、社会に対する復讐として起こした事件です。

    7人もの無関係な人達を殺害した事件ですので、非難が上がるのは当然なんですが、ロスジェネ世代の一部は、笹清を英雄視する向きもありました。
    そんな中起こった、大阪地検での爆破事件では、「ロスト・ルサンチマン」と名乗る人物が犯行声明を出します。

    このテロ事件に対しても、犯人にシンパシーを抱く者も居ます。
    ロストジェネレーション世代いうのは、バブル崩壊後の就職氷河期に就職活動を行った世代。
    ルサンチマンというのは、弱者が強者に対して抱く、恨みや嫉妬心の事です。
    この二つの言葉を組み合わせたんだと思われます。

    日頃から表情を全く見せない事から、能面検事と呼ばれる不破が、この二つの事件を担当します。
    でも、不破検事は、かつて大阪府警のスキャンダルを暴き、多くの警察官が処分された事から、大阪府警との関係がいいとは言えません。

    爆破事件は続き、模倣犯も現われる中、不破は関係者からの事情聴取を進めて行きます。
    そして、不破自らも爆破事件に遭遇してしまいます。

    うーん、美晴に不破の代わりはできないですよね。
    まあ人生に於いて、運不運はつきものだと思いますが、世代のせいにするのは間違っていると思いますね。

    1. ライオンまる より:

      オーウェンさん、こんにちは。
      中盤、不破が一時戦線離脱してしまった時はかなり驚きました。
      ここで「未熟だった美晴が、一人になった途端に飛躍的に成長する」みたいなご都合展開にしない所が、むしろ良かったと思います。
      なぜかやたらとツイている人、逆に不運に見舞われる人がいることは事実。
      それでも、人を不幸にしていいわけではないと、強く思います。

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