<テレパシー>という超能力があります。これは、心の中の思いが、言葉や身振り手振りを使わずに他人に伝わる能力のこと。SF作品などで敵相手に大立ち回りするような派手さはないものの、実生活では結構便利そうな能力に思えます。
テレパシーが登場する小説としては、筒井康隆さんの『七瀬三部作』と宮部みゆきさんの『龍は眠る』がぱっと思い浮かびました。どちらにも、己の能力に苦しみ、葛藤する超能力者が登場します。では、この作品ではどうでしょうか。瀬尾まいこさんの『掬えば手には』です。
こんな人におすすめ
テレパシーが絡んだヒューマンストーリーが読みたい人

自殺はいけないこと。これは老若男女問わず誰もが断言することだと思います。その理由は色々あるでしょうが、多いのは「親からもらった命を粗末にしちゃだめ」「生きたくても生きられない人がいるのだから」辺りでしょうか。キリスト教圏なら「神が禁じているから」なんて理由もありそうです。
私は本が好きですが、映画も負けず劣らず好きです。昔、家の近所に映画館やレンタルビデオショップがあったこともあり、一時は週に何度も映画鑑賞に出かけたり、興味のある映画のDVDを片っ端から借りたりしていました。おかげでバイト代が全然貯まりませんでしたが、今振り返っても、あれはあれで楽しかったです。
「悪法もまた法なり」。かつて、学者ソクラテスが言ったとされている言葉です(本当に言ったかどうかは諸説あり)。実際にはかなり哲学的な意味があるようですが、今はストレートに「たとえ間違った法律でも、法治国家である以上は従わないといけませんよ」という意味で使われることが多いようですね。確かに、各自が勝手に「あの法律は変だから守らない!」「こんな間違った法律に従う必要はない!」などと言い出したら、社会は成り立ちません。法律が間違っているなら、定められた法改正の手続きを取れというのは、決しておかしな話ではないでしょう。
創作の世界には<パスティーシュ>という用語があります。これは一言で言うと、作風の模倣のことです。似たような用語に<オマージュ>があり、実際、日本では厳密な区別はない様子。ただ、色々なパスティーシュ作品、オマージュ作品を見る限り、前者は先行する作品の要素がはっきり表れているのに対し、後者は作家が先行作品を自分なりに読み取った上で作品化するので、「え、〇〇(作品名)のオマージュなの?」とびっくりさせられることが多い気がします。
小説の人気キャラクターをイラストで描くのは、なかなか難しい仕事です。実写化でも言えることですが、キャラクター人気が高ければ高いほど、どれだけ上手くイラスト化しても「なんか思っていたのと違う」「〇〇(キャラクター名)はこんな顔じゃない」という不満が出ることは不可避。特に挿絵がない小説の場合、読者がキャラのイメージを膨らませる余地が大きいため、いざイラスト化されるとネガティブな感想を抱かれやすい気がします。
いっぱしの読書家を気取っている私ですが、最近、買う本の冊数はずいぶん減りました。読みたい本がある時は、図書館で借りるのが基本。欲しい本を片っ端から買っていくとあっという間に財布が空になってしまいますし、本の置き場所も無限にあるわけではありません。子どもの頃はあまりよく考えず小遣いをどんどん本に費やしていましたが、成人した今となってはそうもいかないのが現状です。
一昔前、この世における性的指向は異性愛、すなわち男女間で性的な愛情を抱き合うのが一般的とされていました。同性愛という概念自体は昔から存在したようですが、多少例外はあれど、それは基本的に不健全で非常識。差別の対象となったり、病気の一種と捉えられたり、最悪、魔女狩りのターゲットとされることすらあったと聞いています。
コロナが流行る前、<シェア>という言葉を頻繁に見聞きする時期がありました。大皿料理やスイーツを頼んで同席者同士でシェア、ステーションに停めてある車をみんなで利用するカーシェアリング、各自の能力を必要に応じて共有・マッチングさせるスキルシェア・・・中でも、一つの家に複数人で住むシェアハウスは、人気リアリティショーの設定となったこともあり、爆発的に知名度を伸ばしました。気の合う仲間同士と楽しく、しかし家族ほどべったり干渉することなく暮らせたら、さぞ快適なことでしょう。
私は根が小心者ということもあり、体に異変を感じたらさっさと病院に行きます。「実は深刻な病気だったらどうしよう」「様子見している内に手遅れになったら・・・」等々、つい悪い想像を巡らせてしまうんです。そのため、昔から病院はけっこう馴染みのある場所でした。