一昔前、この世における性的指向は異性愛、すなわち男女間で性的な愛情を抱き合うのが一般的とされていました。同性愛という概念自体は昔から存在したようですが、多少例外はあれど、それは基本的に不健全で非常識。差別の対象となったり、病気の一種と捉えられたり、最悪、魔女狩りのターゲットとされることすらあったと聞いています。
では、なぜそんな差別や迫害が起こり得るのか。理由は色々ありますが、その一つは<知らないから>ではないでしょうか。異性愛以外の性的指向や性自認について、知識も、知識を得る機会もないからこそ、「得体の知れない、おかしな連中」という偏った考えが生まれます。とはいえ、時間もお金も体力も有限である以上、ありとあらゆる性的指向・性自認の持ち主と直接知り合うことはほぼ不可能。そういう時こそ本を読み、映像を視聴し、少しずつでも世界と価値観を広げていくことが大切なのだと思います。先日、この本を読んだことで、改めてそう感じました。櫛木理宇さんの『氷の致死量』です。
こんな人におすすめ
セクシャリティ問題が絡んだサスペンスに興味がある人
とある私立中学で英語教師として働き始めた主人公・十和子。この学校では十四年前、女性教師・戸川更紗が何者かに殺害されるという未解決事件が起きていた。女性教師が自分によく似ていたこと、自分と同じアセクシャル(無性愛者)だったらしいことを知り、事件を調べ始める十和子。そんな彼女の身辺で、次々と不審な出来事が起こり・・・・・時同じくして、連続殺人鬼・八木沼は、衝動に駆られるまま、次々と人を殺め続けていた。どれだけ殺人を行おうと、彼が本当に固執し続けているのは十四年前に死んだ更紗ただ一人。やがて八木沼は、十和子のすぐ側に手を伸ばしていき・・・・・彼らの世界が交わる時、一体何が起こるのか。謎が謎を呼ぶ、戦慄のサイコサスペンス
ここ最近、『虎を追う』『虜囚の犬』『依存症シリーズ』等々、陰湿で残酷な雰囲気の作品が目立つ櫛木理宇さん。本作でも、主に殺人鬼・八木沼のパートで、かなり猟奇的な描写が出てきます。ただ、被害者を長期間に渡って監禁するとか拷問するとかいった場面はありません。上記の櫛木作品に慣れた私は、「あれ、ちょっとマイルドじゃん」と思ってしまいました。
主人公は、悲劇的な出来事による休職を経て、私立中学に赴任した英語教師・十和子。十和子は、十四年前に学園内で起きた未解決殺人事件の被害者・更紗が自分とそっくりだったこと、アセクシャル(無性愛者)だったらしいことを知り、驚きます。実は十和子自身、無性愛者であり、そのことを隠して結婚した夫とは離婚寸前でした。更紗に興味を持ち、事件について調べ始めた十和子ですが、周囲では不気味な事件が相次ぐようになります。果たしてこれは、十四年前の真相を知る何者かの仕業なのでしょうか。
その頃、殺人鬼の八木沼は、欲望のまま次々犯行を重ねていました。彼は<ママ>という存在に強烈な執着を抱き、<ママ>と見做した女性を殺し続けていたのです。そんな八木沼が繰り返し思い返すのは、十四年前、大好きだった更紗が息絶えた瞬間・・・しかし、もう更紗はいない。<ママ>を求めて彷徨う八木沼は、ついに十和子を見つけてしまいます。二人の邂逅は、事件を誰も予想し得ない方向に導くことになりました。
四一六ページというなかなかのボリュームにも関わらず、読み応えたっぷりの内容に、ページをめくる手が止められませんでした。教師の十和子と、殺人鬼の八木沼。二人の視点から成る構成のせいもあるかもしれませんね。十和子のパートには、櫛木ワールドの人気者・今道刑事も登場するので、過去作品のファンは嬉しくなること必至です。事件を起こす側の八木沼と比べ、公私共に追い詰められていく十和子の姿は痛々しいものがありますが、相変わらず理性的で誠実な今道の存在に救われます。
十和子と八木沼の世界が交わる瞬間の驚きや、クライマックスのハラハラ感、真相発覚時のカタルシスはかなりのもの。ですが、それ以上に、多様な性的指向に関する描写が本作も魅力だと思います。アセクシャルである十和子は他者に性的な愛情を抱くことができず、母親の顔色を窺ってお見合い結婚した夫との結婚生活は破綻。同じくアセクシャルだったと思われる更紗のことを調べるうち、アセクシャル以外の様々な性的指向について知ることになります。他者から恋愛感情を持たれることを望まないリスロマンティック、動物を性愛の対象とするズーフィリア、物を愛する対物性愛者、他者に恋愛感情は持たないものの性的感情は抱くアロマンティック・・・今までまったく知らなかった言葉もあり、推理パートそっちのけで読み耽ってしまいました。
考えてみれば、こういう問題で正解・不正解、健全・不健全を決めること自体、ナンセンスなんですよね。中盤で登場人物が語る「暴力をともなわず、合意の上で成り立っている限り、すべての性愛行為はOK」「愛に異常だの正常だのといった物差しを使うべきではない」という言葉が胸に染み入ります。一部の人達が<健全>と見做す男女間の恋愛だって、これを守れないケースが一体どれだけあることか・・・・・
メインとなるのはセクシャリティ問題ですが、それ以外にも毒親問題、児童虐待、宗教、モンスターペアレント等、複雑なテーマが丁寧に織り込まれています。凄惨な事件は起こるものの、希望を感じるラストも好印象。最後にドカーンと奈落の底に突き落とされる櫛木作品も大好きですが、こういう読後感が爽やかなものもいいですね。
<普通じゃない>人なんてどこにもいない度★★★★★
母親がもっと健やかな人だったらなぁ・・・度★★★★☆
櫛木理宇ワールド全開の長編でした。
猟奇的な殺人の描写にも犯人が意外に冷静沈着にことを進める場面が印象的でした。
いかに冷静で自分自身のことを分かっていても、頭が足らないようでは肝心なところでミスをする、詰めが甘くなる~それが櫛木さんの王道パターンでホーンテッド・キャンパスがまさにそれだと感じました。
セクシャルマイノリティの世界の更に奥にあるマイノリティにも驚きました。
ストーリーの中のただの同性愛者とは違う~と言っていた台詞も印象に残ってます。10年前の柚木麻子さんの作品ねじまきの片思いにも同性愛者の場面がありましたが、同性愛者が少しずつでも容認されるようになったと感じます。
そう言えば、「ねじまき片思い」にも同性愛者が登場しましたね。
作中ではかなりカラッと描写されていましたが、よく考えてみれば根も奥も深い問題だと思います。
ラストで十和子が一歩踏み出せたことに安心するとともに、彼女の新しい名前が何なのか気になりました。