はいくる

「わたしの本の空白は」 近藤史恵

<記憶喪失>という言葉を見聞きしたことがない人は、恐らくいないと思います。正確には<逆行性健忘>といい、過去の記憶を思い出すことが困難になる症状を指します。この三日間、どんな風に過ごしたかまるで思い出せないというだけで、ものすごく不安でしょう。まして、今まで生きてきた人生すべての記憶を失い、自分が何者か分からないとしたら・・・その恐怖は想像を絶するものがあります。

現実では恐ろしい記憶喪失ですが、フィクションの世界においては、物語を盛り上げる要素となりえます。宮部みゆきさんの『レベル7』、東野圭吾さんの『むかし僕が死んだ家』、綾辻行人さんの『黒猫館の殺人』などは、<記憶喪失>というキーワードを上手く絡めた傑作ミステリーでした。この作品にも記憶喪失になったヒロインが登場します。近藤史恵さん『わたしの本の空白は』です。

 

こんな人におすすめ

記憶喪失をテーマにした小説が読みたい人

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意識不明を経て、病院のベッドで目を覚ました主人公・三笠南(みかさ みなみ)。なんと南はすべての記憶を失っていた。病院に駆けつけてきた夫や認知症の義母、妙にきつい物言いの義姉との生活になじめない中、心の支えは夢に出てくる男性だけ。自分の名前さえ忘れていながら、その男性を深く愛していたことだけは覚えている南。そんなある日、南は失った記憶の手がかりを求めて、妹の小雪と会うのだが・・・・・

 

コンスタントに新作を出してくれる近藤さんが、今回テーマとしたのが<記憶喪失>。多くの作家さんが扱ってきた題材ですが、本作の場合、「何かを隠しているような同居家族」「記憶を失ってもなお残る恋愛感情」という二つの要素を加えることで、物語の陰影がより濃いものとなっています。特に南が「どこの誰かも覚えていない相手への恋心」に胸を熱くする描写は丁寧で、読んでいるこちらまで切なくなってしまいました。

 

主人公である南は、これまでの人生すべての記憶を失った状態で目覚めます。夫を名乗る男性は南が目覚めたことを喜ぶものの、今の南にとって彼は見たこともない赤の他人。義母・義姉との同居生活もぎくしゃくしたものであり、南は精神的に疲弊していきます。そんな南の唯一の救いは、夢で「とても愛している男性」に会うことでした。彼はただの夢なのか、それとも現実に存在しているのか。真実を知るため妹と会い、自分の実家へと向かった南は、そこで夢の男性らしき相手を見かけるのです。

 

ブログで取り上げておいてなんですが、本作はかなり読み手を選ぶ作品だと思います。理由はいくつかあるのですが、その一つはずばり「登場人物に感情移入しにくいから」。主人公である南という女性、記憶喪失をはじめとする様々な事情を差っ引いても、結構身勝手な行動を取っているんですよね。そんな南を案ずる夫・慎也の行動も何となく胡散臭い上、酒癖が悪いことが判明。さらに中盤からとある女性が登場するのですが、彼女がこれまた腹に一物あるタイプで・・・・・この作者さんの小説で、ここまで登場人物に共感しにくいものも珍しい気がします。

 

とはいえ、決して面白くないわけではありません。要所要所で登場する意味ありげなワードが伏線となり、最後にきちんとまとまる流れはまさに安定の近藤ワールド。また、徐々に記憶を取り戻していく南が、過去の嫌な思い出を「これも私を構成するものの一つ」として受け入れる描写は良かったですね。確かに、いい思い出と悪い思い出、全部ひっくるめてこその人生だからなぁ。

 

近藤さんはイヤミスもたくさん書いていますが、本作はイヤミスというほど後味悪くはなかったです。真相は判明し、それなりの救いもある一方で、どことなくモヤモヤとした不穏さが漂う・・・言うならば<モヤミス>といったところでしょうか。こういう雰囲気の作品を読みにくいと感じさせないところが、近藤さんのすごいところですよね。

 

本当に悪い人間は果たして誰?度★★★★☆

いい思い出だけ残して生きていけたらいいのにね度★★☆☆☆

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