はいくる

「とける、とろける」 唯川恵

人間の三代欲求は、<食欲><睡眠欲><性欲>と言われています。これを緊急度合という基準で考えると、強いのは睡眠欲、食欲、性欲の順なのだとか。人は睡眠欲や食欲が満たされないと、いずれ体力が尽きて死んでしまいますが、性欲は満たされなくてもすぐ死ぬことはありません。子孫繁栄にしたって、人工的な手段を使えば、欲求云々を抜きにしても可能と言えば可能です。そう考えると、これは確かに正しい順位なのでしょう。

ですが、これはあくまで<緊急性>を基準とした話。<緊急ではない=なくていい>というわけではないのが、この世の不可思議なところです。人類最古の職業は売春業と言われているだけあって、生物と性欲との間には切っても切り離せない関係があります。今回は、そんな性愛の奥の深さをテーマにした作品をご紹介します。唯川恵さん『とける、とろける』です。

 

こんな人におすすめ

女性目線の官能小説に興味がある人

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冷えた結婚生活を送る人妻の秘密、愛する人の本心を知った女の決断、運命の相手を探し続ける女がようやく得たもの、隠された一面を引き出してくれる男とのひと時、妻の目覚めを待つ夫の本当の想い、己の欲望に気付いてしまった女の最後の願い・・・・・体と心の奥底に染み入る、濃密な官能短編小説集

 

 

唯川恵さんは、大人の女性が仕事や恋に励む様子を描くのが上手な作家さんです。成人女性が主人公になることが多いため、しばしば作中にラブシーンも出てきますが、基本的にさらりと綺麗に描写されてきました。対して本作は官能小説集ということで、ラブシーンの描き方はかなり濃厚。とはいえ生臭い感じはしないので、「官能小説?うーん・・・」と躊躇ってしまう方でも大丈夫だと思います。

 

「来訪者」・・・世間体のため、冷え切った仲の夫と家庭内別居を続ける博子。ある日、旧友の美里と偶然再会するが、美里は夫から異常な束縛を受けていた。精神的DVでないかと心配する博子に、美里は「こっそり恋人と会っているから辛くない」と語り・・・

色々と解釈が分かれそうな話です。世間一般の見方からすれば、幸福とは言い難い結婚生活を送っている博子と美里。にもかかわらず、なぜ美里は満たされているのか。彼女が語る恋人とは一体何者なのか。結末はホラーとさえ思えるものですが、本人達が満足ならいいのかな?

 

「みんな半分ずつ」・・・社会的地位、安定した経済力、理解し合えるパートナー。すべてを手に入れたはずの弓枝の人生は、事実婚状態だった夫が若い女に走ったことで一変する。なぜ。私達は幸福で対等な関係を築いていたのではなかったか。呆然とする弓枝に、夫は決定的な一言を突きつけて・・・

ラストまでの展開自体は、似たような流れになっている作品が他にもいくつかあり(確か、唯川恵さん自身も過去に書かれていたはず)、イヤミスに慣れた読者なら勘づくと思います。本作が印象的なのは、弓枝が繰り返し語る「半分ずつ」という言葉。金銭も、食べ物も、愛情も、すべて対等に半分ずつ分け合ってきたはずのカップル。そんな二人が破局し、半分ずつにすることができなくなった時、何が起こるのか・・・でも、ほんの少しだけ、夫が感じていた息苦しさも分かる気がします。

 

「写真の夫」・・・水商売から足を洗い、堅実な男と結婚したものの、退屈な生活にすっかり飽きた友恵。離婚したいが、できるだけ条件は有利な方がいい。そこで伝手を使って別れさせ屋に夫を誘惑させることにした。別れさせ屋の女とは定期的に状況報告の場を設けるが、そこで語られる夫の姿は、友恵が知るものとはまるで別人で・・・

この話の主人公・友恵は、恐らく収録作品中一番身勝手な性格をしています。普通の暮らしがしたくて真面目な男(小金持ち)と結婚したのに、その堅物ぶりに嫌気が差し、別れさせ屋に夫を誘惑させて離婚話を有利に進めようとする。そのくせ、別れさせ屋と接する時の夫が、自分と接する時とはまるで別人と知り、なんだか納得できない・・・ただ、そこで友恵が我儘なだけの女というわけでなく、たぶん不幸なんだなと読者に察せさせるところが、唯川恵さんの上手いところですね。結局この夫婦、どうなるんだろう?

 

「契り」・・・平凡な生活を送る圭子は、気まぐれで見てもらった占い師から「運命の相手がいる。会えばすぐそうと分かるはず」と告げられる。その言葉が何となく引っかかり、多くの男と関係を重ねる圭子。数年後、圭子は後輩の男性社員と二人で飲みに行く機会を得るのだが・・・・・

前の話とは打って変わって、この話の圭子は特に悪いことはしていません。それに、「どこかに運命で結ばれた恋人がいる」と信じる気持ち、なんとなく分かる気がするんですよ。だからこそ、とうとう運命の相手を見つけた圭子の行動は衝撃的でした。いやいやいや、なんでそこで極端に走っちゃうの!?普通に付き合って添い遂げればいいじゃないのよ!

 

「永遠の片割れ」・・・経済力のある優しい夫と可愛い娘を持ち、幸福そのものの生活を送る理佐。だがある時、理佐は仕事を通じて画家志望の若い男と出会ってしまう。惹かれ合い、人目を忍んで逢瀬を重ねる二人。男は一緒に人生をやり直すことを望むが、理佐には夫と娘を捨てる決断ができず・・・

これは、有閑マダムのお気楽な火遊びと取るか、しがらみを捨て去ることができない悲しい愛と取るか、感想が分かれそうですね。こういう不倫物語の場合、夫が冷たかったり、あるいは愛人が金目当ての小ずるい男だったりするものですが、この話では真逆。夫も愛人も、真剣に理佐を思っています。だからこそ、ラストの虚しさや哀れさが際立ちました。

 

「スイッチ」・・・地味な容姿と立ち居振る舞いから、周囲に侮られている千寿だが、実は秘かな愉しみがある。出入り業者である既婚の男と、時々、密かに関係を持っているのだ。まるでスイッチが入ったかのような、激しい快楽に溺れる時間。だが、二人の仲は唐突に終わりを迎え・・・・・

主人公・千寿のキャラ、好きです。ダサくて地味な中年女と思われている千寿が、実は性的にかなり熟しており、男女の機微も知り抜いているという描写が結構痛快。千寿の同期OLが、美人で華やか、恋愛経験豊富と思われつつ、案外男に振り回されているのといい対比になっています。ああ、でも、その料理も使い方はもったいない・・・

 

「浅間情話」・・・男に騙され、借金を作り、逃げるように故郷に帰ってきた依子。仕方なしに始めたのは、広瀬という資産家宅での家政婦の仕事だ。広瀬の日課は、昏睡状態で入院中の妻を見舞うこと。いつ目覚めるかも知れない妻に、なぜそこまで献身的に尽くせるのか。不可解に思う依子に、ある日、広瀬は自身と妻の間に起きた出来事を語り始め・・・

本作で一番、男性キャラクターが深く濃く描写された話だと思います。眠り続ける妻のもとに日参し、髪や顔を整え、語り掛ける広瀬。広瀬の過去の行いは褒められたものではないけれど、今、彼が妻と添い遂げることを心底望む気持ちも本物なのでしょう。広瀬の告白が、放埓だった依子の心を動かすシーンは必見です。

 

「白い顔」・・・夫には誠実な妻、娘には優しい母、周囲には聡明な女性と思われ、過不足ない人生を送っているはずの秋子。そんな日々の中、秋子は粗野で猛々しい配管工の男と知り合う。なぜか男は秋子の日常のあちこちに現れ、やがて荒々しく互いの体を貪る仲となるのだが・・・・・

作中で秋子が何度か語る<のっぺらぼう>が意味深ですね。人は皆、場面に応じて、伴侶だったり親だったり同僚だったり友人だったり、様々な顔を見せるもの。それらの顔すべてを失い、むき出しの欲望だけが残った瞬間が<のっぺらぼう>なのかなと解釈しました。秋子が今まで見ていた光景は、一体何だったのでしょう。

 

「夜の舌先」・・・ベテランOLの正子は、休暇で訪れた某国で、望むままの夢が見られるという香炉を買う。気まぐれで、好感を抱いている年下の男性社員・浅山の髪を香炉で燃やすと、彼と熱烈に愛し合う夢を見ることができた。その日から、夢の続きを見るため、必死に浅山の髪を集め続ける正子だが・・・・・

キャリアウーマンではない中年OLが出てくる物語は色々ありますが、大抵は年下の社員達から馬鹿にされたり、陰口を叩かれたりと、屈辱的な扱いを受けることが多いです。ですが、この話では年下男子の浅山も、その恋人も、正子を笑い者にする様子はまったくありません。にもかかわらず、こんな結末を選ぶしかなかった正子が恐ろしくもあり、哀れでもありました。結局、この香炉は本物だったということなのでしょうか。

 

ホラーやファンタジー風味の話もちらほらあるため、そういう方面が苦手な方は要注意かもしれません。でも、現実一辺倒の泥臭さがない分、官能小説に不慣れでも抵抗なく読めると思います。「来訪者」「夜の舌先」辺りは『世にも奇妙な物語』での映像化にも向いていそうです。

 

誰にでも欲望はある度★★★★★

本人にとってはハッピーエンドかも・・・?度★★★★☆

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コメント

  1. しんくん より:

    図書館で何度か見ましたがまだ未読でした。
    女性の官能小説、ホラー、イヤミス、ファンタジーと唯川恵さんの作風が凝縮された短編集のようで読んでみたくなりました。
    櫛木理宇さんの「殺人依存症」届きました。
    櫛木理宇さんは唯川恵さんと作風が似ているようで何か違う~と感じます。

    1. ライオンまる より:

      <官能小説>という濃厚な響きとは裏腹に、水がするする流れるように読める短編集でした。
      性愛シーンはそれなりに多いものの、生臭さがあまり感じられないところが、唯川恵さんの持ち味ですね。
      依存症シリーズ、グロ描写は多いながら、よく練られていて面白かったですよ。
      個人的にはクズ共が地獄に堕ちる「残酷依存症」の方が好きですが、一作目「殺人依存症」を読んでいないと話が繋がらないので、ぜひ二冊とも読んでほしいです。

  2. しんくん より:

     短い文章の中にも女性の日常から突如、ホラー要素に発展していく衝撃的な短編集でした。
     ロマンスが過ぎれば妄想になりホラーにまでなっていく過程を垣間見たような作品でした。
     男の思い込みが暴走してストーカーや束縛に走る行為とは反対側の暴走劇は誰にでも起こりうる?とふと思いました。

    1. ライオンまる より:

      仰る通り、愛も情も、限度を超えると恐怖でしかないんですよね。
      ヒロイン達の、ひたすら陰陰滅滅と内にこもる欲望や愛憎が印象的でした。
      この雰囲気は、女性が主人公ならではでしょうか。

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