はいくる

「天に堕ちる」 唯川恵

好意を抱く、心惹かれる、ときめく、思いを寄せる・・・誰かに恋愛感情を抱く表現は色々ありますが、一番一般的なのは<恋に落ちる>という言い方だと思います。この表現の由来は不明ですが、理性ではどうにもならない心理状態にすっぽりはまる様子が<落ちる>と言い表されるのかもしれません。実際、恋が原因でのっぴきならない状態に陥ってしまった人は現実にも大勢存在します。

当然、容易く抜け出せない恋愛をテーマにした小説も数えきれないほどあります。辻仁成さんの『サヨナライツカ』、東野圭吾さんの『夜明けの街で』、山本文緒さんの『恋愛中毒』など、三十代以上の男女を主人公にした、どちらかというと大人向けの作品が多いですね。今回ご紹介する小説にも、どうにもならない恋の沼にはまりこんでしまった男女が出てきます。唯川恵さん『天に堕ちる』です。

 

こんな人におすすめ

泥沼のような恋愛模様を描いた短編集が読みたい人

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出張ホストに金を渡し続けるクリーニング店従業員、娘婿と過ごすひと時に安らぎを見出す主婦、自らの自殺願望と半生をカウンセラーに話す風俗嬢、保健室の常連である男子中学生に惹かれる養護教諭、生活への不満をネット上で晴らす非正規社員、最愛の息子の幸福のためすべてを捧げる大女優・・・・・ただただ、呪うように誰かを想う。それは果たして幸福なのか、不幸なのか。行き場のない九つの愛を描いた短編小説集

 

タイトルが<落ちる>ではなく<堕ちる>であるところに、本作のすべてが表れています。決して幸せ一杯とは言い難い。囚われ、落ちぶれ、抜け出せない深みにどんどんはまっていく。そんな恋愛がいくつも出てくるわけですが、短編集なので一話一話はすごく読みやすいです。中にはちょっとしたどんでん返しがあるエピソードも収録されているので、サスペンス好きな読者も楽しめるのではないでしょうか。

 

「りつ子-――ゆるやかな断崖」・・・離婚後、クリーニング店で働きながら出張ホストのユタカと会うようになったりつ子。彼との逢瀬を楽しみたい一心で、店が預かるブランド物の服を持ち出して身に付け、請われるままお金も渡す。ついには消費者金融にまで手を出すのだが・・・・

身も蓋もない言い方をすれば、ホストに騙されて貢ぐ愚かな女の話、となるのでしょう。面白いのは、りつ子がユタカに騙されていることも、こんな付き合いがいつまでも続くはずもないということも、きちんと理解しているところ。すべて承知で泥沼の底へ沈んでいく、妙に冷静なりつ子の述懐が哀れで切なかったです。離婚したとはいえ、りつ子は友人関係にも職場にもそこそこ恵まれていそうなんですけど、それとこれとは別なんでしょうね。

 

「正江-――遠い誓い」・・・正江は、定年後の夫の存在にうんざりしている主婦。共働きの娘夫婦の家に行き、家事をこなすのが息抜きだ。次第に、勝気な娘と違って素直に感謝の気持ちを表してくれる婿に心安らぐものを感じ始めるが・・・・・

定年退職後、ごろごろしながら文句だけ言う夫に辟易する正江の心理描写が生々しい!最初からこんな夫婦だったわけではなく、熱烈な大恋愛の末に結ばれ、幸せ一杯な夫婦だった時代もあるという辺りがリアリティありますね。娘夫婦との在り様の違いも印象的ですが、これはそこそこハッピーエンドと取っていいのかな?

 

「茉莉-――さまよう蝶は傷つかない」・・・自殺するため訪れた高層ビルで、なりゆきからカウンセリングを受けることにした茉莉。現れたカウンセラーに対し、茉莉は自分の半生を語り始める。出会った男達を茉莉はいつだって一途に愛するが、彼らは皆、茉莉から離れていき・・・

一番ショッキングだったエピソードです。一見ふわふわと能天気そうな茉莉が語る半生がなかなかに壮絶。男達のほとんどはしょうもない連中ばかりだし、このカウンセリングルームの先生も大丈夫なの・・・?と思いきや、まさかそういうオチだったとはね。ものすごく平和的に終わっているけれど、この後、とんでもない事態になりそうな気がしてハラハラします。

 

「可世子-――スウィートホーム」・・・ふとしたきっかけで知り合った中年男性・ふーさんと同居するようになった可世子。ふーさんの家には可世子と同じような女が八人いて、みんなで仲良く暮らしている。そんなある日、ふーさんが警察に逮捕されてしまい・・・

まさに<恋愛は外野からは分からない>を地で行くエピソードです。一人の男と九人の女性が共同生活を営み(性的な接触有り)、全員がそれを受け入れて楽しく暮らすだなんて、世間一般の目からすればアブノーマルもいいところ。でも、本人達にとってはそれが一番自然で幸福なんですよね。第一話と同じく、この話の可世子も別に社会から孤立しているわけではなく、家庭や職場にきちんと居場所があり、その上でふーさんとの暮らしを選ぶというところが印象的でした。

 

「和美-――白いシーツの上で」・・・中学校で養護教諭を務める和美は、結婚を機に退職することにする。自分で選んだ道だが、唯一の心残りは、保健室によく顔を出す生徒・雅也のこと。和美は、親子ほど年の違う雅也に心惹かれていて・・・

第三話とは違った意味で、その後が気になりまくりです。生徒への許される恋心を必死で断ち切った和美。その後は釣り合いの取れる相手との平和な結婚生活が待っているのかと思いきや・・・・・こう来ましたか、唯川さん。和美も結婚相手の男性も良識的な善人だし、まっとうに幸せになってほしいんですが、雅也も可愛いしなぁ。全員が円満にハッピーエンドを迎えられる展開ってないのかしら。

 

「汐里---J」・・・人気イラストレーターの汐里は、会社員の夫と二人暮らし。夫はイラストの仕事をまるで理解しないものの、過去に同業者との結婚で失敗した汐里はつい不満を溜め込んでしまう。そんな二人に生活は、汐里が犬を飼い始めたことで軋み始め・・・

この夫を鈍感なだけの呑気者と取るか、無神経なモラハラ夫と取るか、読者によって意見が分かれそうですね。汐里のイラストに対する敬意は皆無なものの、前夫との失敗から仕事のことを何一つ話そうとしない汐里にも非がある気がするし・・・ただ、ひたすら溜め込むばかりだった汐里が最後の最後で我に返り、ぴしゃりと引導を渡す場面は小気味良かったです。ワンコも幸せになれそうで良かった!

 

「菜々美-――渋谷に午後六時」・・・女子高生の菜々美は、アイドル歌手であるマキトに夢中。追っかけに熱中するあまり、学校生活は疎かになりがちだ。だが、ある時、マキトがファンに対して暴力的に振る舞う瞬間を見てしまい・・・・・

収録作品中唯一、ティーンエイジャーが主役になったエピソードです。彼女の恋の相手が彼氏ではなく、アイドルだというところがミソ。生身の人間である彼氏と違い、アイドルはファンにただただ夢を与えてくれる存在です。そんなアイドルの粗暴な面を目撃してしまった菜々美の変化は、なかなか興味深いものがありました。なんだかんだ言いつつ、本作に登場する女性の中で一番幸せになれそうなのはこの子な気がします。

 

「光-――昨夜見た夢」・・・人気者だった過去が忘れられず、倉庫で契約社員として働きながら鬱屈した毎日を送る光。気晴らしは、ネットに女性を名乗って書き込みし、乗ってきた男達をからかうこと。そんなある日、光はラーメン店の女性店員・路子と親しくなるのだが・・・・・

この話のみ、男性が主人公です。序盤、過去の栄光にすがり、ネットで人の心を弄ぶ光にはひたすらイライラ・・・そんな彼が、健気に生きる路子と知り合い、徐々に生き甲斐を取り戻していく様子は清々しいです。でも、本作の趣旨からして、絶対どんでん返しがあるんだろうなと思っていたら、案の定でした(汗)自業自得と言われればその通りなんだけど、払った代償が大きすぎるよなぁ。この後、路子が巻き込まれないか心配でなりません。

 

「黎子-――誰よりも愛しい男」・・・一人息子を溺愛しながら、女優としてのキャリアを築いていく黎子。誰と寝ようと、いくら金を積もうと、息子の幸せのためなら苦にならない。だがある時、息子はとんでもない事件を起こしてしまい・・・・・

第三者目線ではただのバカ息子を<素晴らしい子><優しいから周りに利用される><母親が女優のせいで悪目立ちしてしまう>と盲目的に信じ、愛する黎子が怖いような哀れなような・・・彼女が愛すれば愛するほど、息子が転落していくのが読者には分かるんですけどね。結局、息子は黎子の力をもってしてもどうにもならない事態を引き起こしてしまうわけですが、それを悟った黎子は、果たして正気でいられるのでしょうか。

 

「妙子-――ふたりの世界」・・・美容師の妙子は、雇い主の好意で見合いをし、結婚を決める。となると問題は、同棲している倫太郎の存在だ。ネットで知り合った倫太郎は若く、美しいが、働きもせず家に引きこもってばかり。結婚するとなると、彼との仲を終わりにしなければならない。だが、どれだけ話しても、倫太郎は家に居座り続け・・・・・

最終エピソードで最大のビックリが待っていました。てっきりヒモ男と共依存状態という話かと思いきや、そんな真相だったとは・・・でも、よく読んでみると、ちゃんと伏線は張ってあったんですよね。男女問わず、倫太郎のような存在を求める人って案外多いんじゃないかと思います。

 

一部を除き、「そりゃ本人は満足なんだろうけど・・・」という展開の話が多く、後味が良いとは言い難いです。にもかかわらず、アンハッピーエンドという印象がないのは、やっぱり主人公達が自分の状況を完璧に受け入れてしまっているからでしょうか。こういう泥沼は案外日常のすぐ側にあるのかもしれません。

 

恋愛の形は十人十色度★★★★★

ここまで溺れられるのは、もしかして幸せなのかも・・・度★★★★☆

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コメント

  1. しんくん より:

    唯川恵さんらしい泥沼にはまっていく恋愛模様を想像します。
    男が女性に入れあげてしまう「夜明けの街」はまさにどうにもならない恋の沼にハマった男性をリアルに描いていました。
    第3者から見れば呆れるようでも、実際に本人たちは分かっていてもどうしようもなく堕ちていく~まさに天に堕ちるとはこのことだと感じそうです。
    唯川恵さんの作品も久しぶりに読んでみたくなりました。

    1. ライオンまる より:

      唯川恵さんの小説って、定期的に読み返したくなるんですよね。
      本作には泥沼恋愛劇が出てきますが、柔和な文章のおかげですいすい読めます。
      自分の恋愛がまともではないと理解し、それを受け入れて転落していく女性達の姿が印象的でした。

  2. しんくん より:

    読み終えました。まさしく「天に堕ちる」という題名がしっくりくる短篇集でした。
    男性が危険だと頭で理解しながら、魅力的な女性に貢いで身を滅ぼしていくように、女性でも同じことがあると改めて思いました。
    「可世子ースイートホーム」は今年本屋大賞受賞作品の流浪の風に似ていると感じました。

    1. ライオンまる より:

      題名も秀逸ですよね。
      一部を除き、ほとんどの登場人物が幸せとは言い難い状況にあるにも関わらず、それを受け入れてしまっているところが印象的でした。
      「流浪の風」は読みたいと思いつつ、大賞受賞により予約件数が凄いことになっているので未読のままです。
      今年中に読めるかな(^^;

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