結婚については、世界各国の偉人達が様々な名言を残しています。「人類は太古の昔から、帰りが遅いと心配してくれる人を必要としている」と言ったのはマーガレット・ミード、「右の靴は左足には合わない。でも両方ないと一足とは言えない」と言ったのは山本有三、「あなたがもし孤独を恐れるならば、結婚すべきではない」と言ったのはチェーホフ、「恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる」と言ったのはリヒテンベルクです。温かいものもあれば皮肉の効いたものもありますが、そもそも結婚自体、良い面と悪い面の両方を持つものなのでしょう。
現実の結婚が幸福なものであってほしいのは言うまでもありませんが、フィクションの世界ならば、結婚にまつわるトラブルは物語を盛り上げるスパイスにもなり得ます。秋吉理香子さんの『サイレンス』、垣谷美雨さんの『結婚相手は抽選で』、辻村深月さんの『傲慢と善良』等々、主人公が結婚を意識したことで事件や騒動に巻き込まれる小説はたくさんありますね。今日ご紹介する小説を読んだら、結婚するのがなんだか怖くなってしまうかもしれません。貫井徳郎さんの『崩れる 結婚にまつわる八つの風景』です。
こんな人におすすめ
結婚をテーマにしたサスペンス短編集が読みたい人
クズのような夫と息子に疲弊する主婦の選択、昔の恋人の影に怯える男の運命、再会した旧友カップルと過ごす戦慄のひと時、気のない相手に付きまとわれる女の恐怖、妻が起こした交通事故を機に対峙する上司と部下、新しい友達を得た母親が抱く一つの疑念、隣室から漂う異様な臭いの正体、結婚を控えた女性にかかってくる不気味な電話・・・・・これを読んでも、果たして貴方は結婚したいと言えるのか。背筋が凍る八つのサイコミステリー
昔読んだ本は、時が経つについて段々と細部を忘れてしまいがちです。ですが、本作を読んだのは確かに十年近く前だったにも関わらず、導入部からラストまですべてちゃんと覚えていました。この本のインパクトがそれだけ大きかったということでしょう。狂気と愛憎に満ちた展開といい、短いながら最後にバシッとオチが決まる構成といい、文句なしに面白い一冊でした。
「崩れる」・・・生活能力ゼロながら自己中心的な夫と息子のせいで、心身共に疲れ切った主人公・芳恵。そんな彼女のもとに、ある日、一本の電話がかかってくる。それは、限界寸前の芳恵をさらに追い詰めるもので・・・・・
主人公の夫と息子が酷過ぎる!!!どちらもいい年して収入も就労意欲もほぼゼロ。にもかかわらずパートで必死に生計を立てる芳恵を酷使し、子どものような我儘を言って振り回す。この二人があまりに愚かなせいで、ラストの芳恵の行動には妙な清々しささえ感じました。とはいえ、平凡ながら善良だったはずの芳恵の今後を思うと、哀れでなりません。
「怯える」・・・主人公は身重の妻と共に平穏な生活を送っている。そんな彼の家庭の周辺にちらつき始めた、元恋人の影。彼女とは酷い別れ方をしたこともあり、何をされるか不安で仕方がない。その不安は、徐々に現実のものとなっていき・・・
収録作品中、恐らく唯一後味の良いエピソードです。元カノの存在によってじわじわ追い詰められていく主人公の恐怖が大きい分、ラスト、真相が分かった瞬間は「えっ」と声を出してしまいました。ストーカーというと、男性が加害者、女性が被害者という構図になりがちですが、男性にとっても付きまといは恐怖ですよね。
「憑かれる」・・・翻訳家として活躍する聖美のもとにかかってきた一本の電話。それは、高校時代の友人からだった。曰く、高校の同級生同士で結婚することになり、食事会を開くので出席してほしいという。誘われるまま会場に向かう聖美だが・・・・・
本作の中では唯一のホラー作品です。まさに王道中の王道と言える怪談話であり、ホラー好きの私の心をくすぐってくれました。高校時代の主人公の行動が、褒められたものではないけれど祟られるほどでもない、という辺りも、いかにもジャパニーズホラーですね。なお、このエピソードは『世にも奇妙な物語』で実写化されています。主演は松下奈緒さんと中越典子さん。こちらもなかなか面白かったですよ。
「追われる」・・・結婚相談所に相談員として勤める千秋は、ある日、男性会員を対象に模擬デートのレッスンを行う。ただのシミュレーションだが、相手の男性会員は優しい千秋にのぼせ上り、やがて付きまとうように。困った千秋は、女友達に相談してみるが・・・
付きまといは怖いけど大ごとにしたくない、騒いでもっと面倒なことになったらどうしよう・・・そんな主人公の葛藤や不安がリアルでした。相手が仕事で関わりのある相手だと、余計に被害を訴えるのを躊躇ってしまうんでしょうね。ひとまず解決して一安心、と思わせた後に訪れる恐怖が生々しく、主人公の無事を願わずにはいられません。
「壊れる」・・・妻に隠れてこっそり不倫をしている主人公。ある時、妻は交通事故に巻き込まれるが、相手はなんと主人公の上司の妻だった。上下関係があるのをいいことにうやむやで済ませようとする上司に対し、主人公が取った行動は・・・
本当だったら主人公側は完全な被害者のはずですが、主人公の不倫という要素を付け加えることで、「お前も人の狡さばかり責められないだろ」と読者に思わせてしまいます。この結末は自業自得と言うべきなのかな。策を弄するのは、何も自分に限った話ではないということなんでしょうね。
「誘われる」・・・新生活を始めた土地でなかなか周囲に馴染めず、孤独を感じる主人公・杏子。そんなある日、杏子は新聞の投書欄を経て、みどりという女性と知り合う。初めての子育て中という共通点もあり、二人はどんどん親しくなるが・・・・
二人が親しくなるきっかけが、ネット等ではなく新聞という所に時代を感じますね。とはいえ、今も昔も子育ての悩みは尽きないもの。杏子とみどりのモノローグが交互に繰り返される所がミソで、「どちらが真実を語っているのか」「正気を失っているのはどちらなのか」読者を悩ませてくれます。ミステリーとしてのビックリ度はこれが一番大きかったです。
「腐れる」・・・主人公・亮子は、夫と共にマンションで二人暮らし中。そんな中、隣室から漂ってくる異様な臭いが気になるようになる。嗅覚が鈍い夫は取り合ってくれないが、これは間違いなく腐敗臭。そういえば、以前、隣家からはしょっちゅう喧嘩する声が聞こえていたが・・・
妊娠により普段以上に神経過敏となった主人公が、隣家への疑念や恐怖心を日に日に募らせていく描写が臨場感たっぷりに描かれていました。音にしろ臭いにしろ、一度気になり始めると何も手につかないくらい気になるんですよね。四話同様、主人公をいったん安心させた後に新たな恐怖を突きつける構成がお見事です。こういう「今後の展開は読者の想像にお任せします」という不安感、好きだなぁ。
「見られる」・・・優しく大らかな恋人との結婚が決まり、婚約期間を楽しむ主人公・未奈子。そんな彼女のもとに、不気味な男から悪戯電話がかかってくる。男は未奈子の行動をすべて把握している上、なぜか携帯電話の番号まで知っていて・・・
最終話にして最大の恐怖を味わいました。亡霊やストーカーも怖いけど、こういう<善良な一般人>が持つ狂気の怖さは格別ですね。あと、主人公を<あまりに無神経でだらしなさすぎる>と取るか、<ガサツだけどこのくらいままある>と取るかで、この話の評価が分かれそうです。私はズボラ人間なので、彼女をあまり責められません(汗)
本作が初めて刊行されたのは一九九七年。もし仮に今、同じテーマで短編集を出すなら、タワーマンション内での住民トラブルとか、不妊治療とか、SNSが絡んだ事件とかが出てくるんでしょうか。かなり読んでみたいのですが、貫井さん、いつか書いてくれないかな。
日常に潜む狂気が一番怖い度★★★★★
こういう嫌な奴って実在するよね★★★★☆
酷い男に対して振り回される女性の心理や現状の短篇集を男性作家が描くというのは珍しい気がします。
1997年と随分前の作品でもストーカーや携帯電話まで登場するのは今とは違ったストーリーがありそうです。
これもなかなか辛辣でですが読んでみたいですね。
「愚行録」や「微笑む人」のような貫井徳郎さん独特の雰囲気を感じます。
仰る通り、この手のテーマの作品を男性作家が書くのは珍しいですよね。
ですが、結婚を軸に揺れ動く女性心理が巧みに描写されていました。
定期的に読み返したくなる佳作です。