ホラーの中には、<サイコロジカルホラー>というジャンルがあります。サイコロジカル(心理的)という単語が付くだけあって、人間の狂気がテーマとなっており、日本では<サイコホラー>と省略されることが多いです。モンスターが大暴れするタイプのホラーとは異なり、じわじわネチネチと精神を蝕まれるような恐怖描写が特徴です。
この手のジャンルの有名どころといえば、我孫子武丸さん『殺戮にいたる病』、貴志祐介さん『黒い家』、中山七里さん『連続殺人鬼カエル男シリーズ』などがあります。海外作品だと、『サイコ』や『ミザリー』などは映画版も有名ですね。サイコホラーにおける重要なポイントは、怨霊や呪いといったオカルト要素ではなく、生身の人間による恐怖を演出すること。その点、今日ご紹介する作品はとても秀逸だと思います。新井素子さんの『おしまいの日』です。
こんな人におすすめ
女性の静かな狂気を描いたサイコホラーに興味がある人
あの人は、まだ帰ってこない---――結婚七年目、子どもはなし、激務の夫を一途に愛する専業主婦・三津子。このまま、ずっと、あの人が健やかでいてくれればいい。そう願う三津子だが、夫は寝る時間もろくに取れないほど働き詰めだ。三津子は夫を労うため、毎日手の込んだ料理を作り、家の中を完璧に整え、夜遅くまで待ち続ける。帰らない夫を、日記を書きながら、ただただずっと・・・・・愛ゆえに壊れてゆく女の狂気を描いた、静かなるサイコホラー
新井素子さんの文章は、時代に合わせた口語表現を積極的に取り入れており、とても親しみやすくカジュアルです。あまりにカジュアルなせいで、「文章で書いた漫画」と評されることもあるようですが、個人的に、この明るいノリがホラーとの相性抜群だと思うんですよ。「いやいやいや!軽く語られてるけど、これって大惨事じゃん!」という展開も多く、光景を想像してゾッとすることもしばしば・・・その描写力は、本作でも遺憾なく発揮されていました。
主人公・三津子は、三十歳の専業主婦。夫である忠春とは喧嘩一つしたことのない仲良し夫婦で、何不自由ない生活を送っています。不満があるとすればたった一つ、激務の忠春の帰りが毎日遅く、休みもろくに取れないこと。このままでは、愛する夫の体が壊れてしまう。三津子は忠春に尽くそうと、毎日、精一杯の手料理を並べ、深夜まで帰らない夫を待ち続けます。ろくに喋る相手もおらず、忠春への思いを日記に綴りながら長い時間を過ごす三津子。そんな三津子を、高校時代からの友人である久美は心配するのですが・・・・・夫婦の<おしまいの日>は、もうすぐそこまで近づいてきていたのです。
本作は三津子視点、三津子の友人・久美視点、久美の夫視点など、場面ごとに視点が変わって進んでいくのですが、その中でボリューム・印象度共に一番大きいのは、恐らく三津子が一人の家でせっせと書いている日記でしょう。一人称のポップな文体で綴られるそれは、三津子の忠春に対する健気な愛情で満ちています。なんて一途でいじらしい奥さん・・・と最初は思うのですが、段々と三津子が愛情と孤独ゆえに静かに狂っていくことが分かっていって、ものすごく怖いんですよ。一に忠春、二も忠春。例え忠春の帰宅が連日午前様になろうと、帰ればすぐ手の込んだ料理を提供できるよう準備万端待ち続け、ひと眠りするなんてもってのほか。あまりに忠春を想いすぎて、途中で妊娠が発覚しても「宇宙人に寄生された」としか考えようとしません。この日記の場面、編集がやたら凝っていて、所々で文章が黒く塗り潰されたり、紙面を破った形跡があったりと、三津子の狂気が垣間見えるレイアウトになっています。おまけに、途中で<なぜか急に姿を見せなくなった飼い猫><三津子の目に映る白い虫>のエピソードが語られるのですが、これが意味するところは恐らく・・・・・日記から察するに、この辺りの三津子はほとんど正気を失ってきていて、サイコホラー慣れした私も読むのが辛かったです。
思うに、三津子はもともと閉鎖的で依存心が強い性格だったのでしょう。最愛の夫である忠春は誠実な人柄なものの、超が付く仕事人間でろくに会話する暇もない。一人きりで家にこもって夫を想い、案じ、段々と歪んでいく様子がひたすら不気味でした。この三津子という女性、本当に社会不適合者というわけではなく、案じてくれる友達もいるし、やるとなるとバイトもできるし、真っ当な常識人としての面もあります。妊娠についても、ちゃんと理解した上で「忠春を想う以外のことに気持ちを割きたくない→だから妊娠などしていない→宇宙人に寄生された」と理性を以て狂気の道を進んでいるフシがあって、余計に怖いったら・・・これほど狂気的に人を愛せるというのは、果たして幸福なのでしょうか。それとも不幸なのでしょうか。
本作を語る上で忘れちゃいけないのが、刊行されたのが一九九二年だということです。(実情はともかく)しっかり休んでプライベートを充実させるのが是とされる現代と違い、当時はバリバリ働き、仕事に邁進するのが大人のあるべき姿だと思われていました。「24時間戦えますか?」というキャッチコピーが、堂々とCMで流れていた時代です。毎日午前様になるまで働き、休日も接待やゴルフで潰す忠春は、この時代は<順風満帆なエリート企業戦士>と思われていたことでしょう。こういう時代だから、忠春の就労状況を案じる人が三津子以外おらず、あんなことになってしまったのかと思います。というか、三津子の狂気に視線が行きがちだけど、この働き方をおかしいと考えない社会も異常だよな・・・本作刊行の約一年前に電通事件が起こっていることを思うと、やるせない気持ちになりました。
ちなみに本作は、裕木奈江さん主演による映画版が存在します。映画化に当たって結構アレンジが加えられているのですが、ヒロイン・三津子の静かな狂気の演出はなかなか見ごたえがありました。久しぶりに見たくなったけど、どこかで配信しているかな?
これぞまさしくサイコホラーのお手本!度★★★★★
あとがきにすべてが詰まっています度★★★★☆







