はいくる

「紙の梟 ハーシュソサエティ」 貫井徳郎

「悪法もまた法なり」。かつて、学者ソクラテスが言ったとされている言葉です(本当に言ったかどうかは諸説あり)。実際にはかなり哲学的な意味があるようですが、今はストレートに「たとえ間違った法律でも、法治国家である以上は従わないといけませんよ」という意味で使われることが多いようですね。確かに、各自が勝手に「あの法律は変だから守らない!」「こんな間違った法律に従う必要はない!」などと言い出したら、社会は成り立ちません。法律が間違っているなら、定められた法改正の手続きを取れというのは、決しておかしな話ではないでしょう。

しかし、法律を作るのが人間である以上、完璧にはなり得ないというのもまた事実です。法律が誰かを救う一方、また別の誰かを苦しめていたとしたら・・・・・少年法をはじめ、多くの法律が長年論争の種になるのは、この辺りが原因ではないでしょうか。今回取り上げるのは、貫井徳郎さん『紙の梟 ハーシュソサエティ』。法と社会の在り方について考えさせられました。

 

こんな人におすすめ

死刑をテーマにしたサスペンス短編集が読みたい人

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理由の如何を問わず、人一人殺したら絶対に死刑---――そんな法律が定められた日本で起こる五つの事件。死より酷い姿となった男の運命、大学生達を翻弄する死の連鎖、連続する報復殺人を見つめる鋭い視線、姉の敵討ちを目論む弟が踏み出した禁断の一歩、死んだ恋人の真実を探る男が見つけたもの・・・・・どこかに存在するかもしれない<もう一つの日本>を舞台に描かれる、人間の業の深さをテーマにしたサスペンス短編集

 

「人を殺した奴には弁護も情状酌量も必要ない」「殺人者は全員死刑にすべき」という意見は一定数存在します。ですが、本作で舞台となるのは、過失致死だろうと正当防衛だろうと、人の命を奪った者は例外なく死刑になる世界。ここまで来ると、「いや、そんなに厳格にしなくても」「やっぱり事情を考慮しないと」という意見が出てくるでしょう。実際、各話の登場人物達の中には、そういう葛藤を抱き、悩む者がいます。仮に私だとしたら・・・どういう答えを出すか、考えあぐねてしまいます。

 

「見ざる、書かざる、言わざる」・・・デザイン会社社長が何者かに襲われた。一命は取り留めたものの、両目を潰され、舌を切断され、両手の指全部を切り取られるという惨い有様に、関係者達は慄然とする。自身もデザイナーである被害者にとって、これは死より酷い状態ではないか。しかし、現行法上、被害者が生きているのだから犯人は死刑にならないわけで・・・・・

アンソロジー『警官の貌』収録作品です。両目がないから見ることができず、舌がないから喋ることができず、指がないからペンを握ることもできない。どんな人間でもどん底に突き落とされるでしょう。まして、この話で被害者となるのは、視覚や描写力が命のデザイナー。精神も社会的生命もずたぼろにされたにも関わらず、命に別状はないから犯人は死刑にならない・・・捜査に当たる刑事達の葛藤がひしひし伝わってきました。このラストは、多少なりとも救いがあると思っていいのかな?

 

「籠の中の鳥たち」・・・別荘地で楽しいひと時を過ごす大学生達。だが、メンバーの一人・千鶴が浮浪者に襲われ、止めようとした河内が男を殺してしまったことで、平和な時間は終わりを告げる。正当防衛のようなものだが、今の法律では、人を殺した河内は死刑になってしまう。河内を守るため、事件を隠蔽しようとするメンバー達。だが、翌日、千鶴が何者かに殺害されて・・・

<謎の殺人者に次々殺されていくメンバー達>とか<災害により陸の孤島と化した別荘>とか、クローズドサークルものの王道をいく話です。この話の場合、さらにそこに<不可抗力とはいえ人を殺した仲間を守るため、メンバーが殺人隠匿の罪を犯している>という要素が加わることで、物語の謎めいた雰囲気が倍増しています。真相もさることながら、中盤、仲良しだったメンバー達が疑心暗鬼に駆られていがみ合う場面がやり切れない・・・でもやっぱり、正当防衛は無罪でいいと思うよ!!

 

「レミングの群れ」・・・一人の男子中学生が、いじめを苦に自殺した。世間の怒りは加害児童やその親、見て見ぬふりをした学校関係者に向けられ、ネット上には彼らの個人情報が溢れる。やがて発見された、いじめ加害者の無惨な遺体。犯人は、「どうせ死ぬなら、いじめ加害者を殺した上で国家に死刑にしてもらおう」と目論んだ自殺志願者で・・・・・

現実にも「加害者にも未来がある」「再発防止に努めるのが先決」という名目で、被害者がないがしろにされがちないじめ問題。その結果、被害者が自殺してしまったら、遺族にとって加害者や見殺しにした者は殺しても飽き足らない相手でしょう。ですが、報復を行うのが、「自分で死ぬのは怖いけど、いじめ加害者を殺せば社会正義が果たせるし、国家に殺してもらえる」と考える赤の他人だったら?理屈は分からないではないけれど、これを許せば社会は無秩序状態。実際、作中では報復殺人が社会的に受け入れられ、国内で自殺志願者による報復殺人が相次ぐようになります。さらにそこに、<田中一朗>なる男の述懐が挟まれるのですが・・・すべてが絡み合い、田中一朗の正体が分かる場面は衝撃的でした。この話が一番読み応えがあったと思います。

 

「猫は忘れない」・・・美貌の姉を殺害された過去を持つ主人公。有力容疑者として、姉の元交際相手が浮上するが、決定的な証拠がなく、事件は未解決のままだ。あいつが姉にフラれた腹いせに殺したに決まっている。死を以て償わせたいが、あんなクズを殺して自分まで死刑になるのは真っ平御免。主人公は逮捕されずに済む復讐方法を考えて・・・

被害者遺族である主人公の怒りや悔しさが生々しいです。第一話でも、大事な家族を殺された刑事が登場しますが、やっぱり主人公として登場すると、読者の感情移入の度合も大きいですね。その分、彼が迎えた結末の皮肉さに呆然とさせられてしまいました。立ち止まるチャンスは何度もあったんだけどなぁ・・・すべてが終わってみれば、主人公と恋人のやり取りが悲しいです。

 

「紙の梟」・・・作曲家の笠間は、恋人・紗弥の訃報を知り、衝撃を受ける。紗弥の惨たらしい遺体を見て呆然とする笠間だが、警察が告げたのはさらにショッキングな事実だった。なんと、紗弥が笠間に話していた、名前をはじめとする経歴はすべて嘘であり、かつては男に貢がせて暮らしていた様子があるという。あの紗弥が、とても信じられない。真実を確かめるため、ネットの力を利用して情報を集めようとする笠間だが・・・・

表題作にして最もページ数を割かれた話です。過去を偽り、嘘で固めて生きてきた女性ということで、宮部みゆきさんの『火車』を連想しました。また、この話では、SNSの存在が重要なキーワードとなります。主人公は恋人の真実を知るため、ツイッターで「自分は死刑制度に反対。恋人を殺した犯人にも生きて更生してほしい」と発言。事件の注目度を上げることで、恋人の情報を集めようと考えますが、寄せられたのはもはや死刑制度と何の関係もない罵詈雑言の数々でした。匿名であるSNSの無責任さ、凶暴さが浮き彫りになり、空恐ろしいような気分にさせられます。ただ、最終話なだけあり、この話が一番希望がある気がしました。

 

調べたところ、第一話「見ざる、書かざる、言わざる」が執筆されたのは二〇一一年。それから少しずつ同テーマの作品が書かれ、十一年経って一冊の本となったわけです。当然、途中で社会情勢や文化が変わっているわけですが、そんな変化をまるで感じさせないくらい、臨場感たっぷりの作品でした。個人的に、第一話に登場した殺人被害者遺族である刑事に何らかの救済が与えられてほしいので、いつか再登場してくれることを望みます。

 

死刑に関する考え方は十人十色です度★★★★★

こんな社会になるわけない・・・?度★☆☆☆☆

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コメント

  1. しんくん より:

    「悪法もまた法なり」、日本では「勝てば官軍」アメリカでは「Light is Might」
     昔からあること~完璧な法も全員が納得する法律など存在しないですが納得出来ないのが正直な意見です。
     しかし法律が無ければ無法地帯になり弱肉強食になると思うと受け入れるしかないと感じます。
     そんな作者の思いを11年かけて綴った作品だと思うと何か感じるものがありそうです。表題にもなった紙の梟が気になります。
     最近読んだ百田尚樹さんの「禁断の中国史」はかなりのホラーでショッキングな内容でまさにこの作品のようでした。
     長江俊和さんの禁断シリーズを思い出します。
     「禁断の中国史」の感想を聞きたいですが、ホラー好きな人でもどう感じるのか?聞いてみたいです。

    1. ライオンまる より:

      法律とは何か、正しさとは何か、考えさせられる作品でした。
      苦い後味の話が多いですが、表題作は希望を感じさせるラストで良かったです。
      「禁断の中国史」、図書館で予約中で、現在三十番目です。
      中国史はそこそこ詳しい方だと自負しており、いわゆる暗黒面もけっこう知っていますが、百田尚樹さんがどう綴っているのか、とても興味あります。

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