私の昔の職場は、大阪の会社と合併したせいもあって大阪出身の社員が多く、大阪への出張も頻繁にありました。職種がサービス業だったことも関係しているでしょうが、大阪という町やその出身者には、明るく賑やかなイメージがあります。実際、大阪を舞台にした小説も、伊集院静さんの『琥珀の夢』や万城目学さんの『プリンセス・トヨトミ』など、スケールが大きい陽性の作品が多い気がします。同じ関西でも、京都を舞台にした作品がしっとりした雰囲気になりがちなのと対照的と言えるでしょう。
とはいえ、当たり前の話ですが、人が生活する場である以上、いつもいつも明るくパワフルでいられるわけがありません。活気溢れる大阪という町にも、しんみりした部分や切ない部分がたくさんあります。今日ご紹介するのは、有栖川有栖さんの『幻坂』。しっとりと胸に染み入るホラーファンタジーでした。
こんな人におすすめ
大阪を舞台にしたホラー小説が読みたい人
かけがえのない幼馴染との悲しい別れ、苦い別離を経て再会する恋人たち、少年を描いた絵と幽霊の謎、猫に魅入られた少女の運命、この世にいない大切な人との逢瀬の行方、幽霊を見ることのできる男の苦悩、松尾芭蕉が晩年に見た影の正体、趣ある庵で見かける亡き人の姿・・・・・清水坂、愛染坂、源聖寺坂、口縄坂、真言坂、天神坂、逢坂。大阪市天王寺にある七つの坂を舞台に繰り広げられる、切なくてちょっぴり怖いゴーストストーリー
ジャンル分けするならホラーということになるんでしょうが、本作に「ぎゃあっ、怖い!」という展開はほぼありません。どちらかというとしんみり胸に染み入るような怖さがメインのため、普段はホラー小説を読まないという方でも安心です。大阪出身の有栖川さんらしい丹念な大阪描写も読み応えありました。
「清水坂」・・・幼い頃、毎日のように一緒に遊んだ「わたし」、岳郎、岳郎の妹の比奈子。楽しい時間を過ごす三人だが、ある時、岳郎と比奈子は家の事情で引っ越してしまう。その後、「わたし」は清水坂の滝にあるはずのない物が流れているのを目撃し・・・・・
物語が子どもの頃の「わたし」目線で進むこともあり、どことなくノスタルジックな雰囲気が漂うエピソードです。この手の作風は朱川湊人さん辺りをイメージしますが、有栖川さんもさすがに上手ですね。どれだけ仲良しだろうと大人の都合や力に抗えず、なすがままに永遠の別れを迎えてしまう子どもたちの姿が悲しかったです。
「愛染坂」・・・作家の青柳は愛染坂の祭りの夜、作家を志す美咲と出会う。やがて恋人となる二人だが、スランプ続きの青柳は文学賞を受賞した美咲に嫉妬し、諍いの末に別れることに。その後、青柳のもとに届いたのは、美咲が自殺したという知らせだった。
自分を無邪気に慕い尊敬してくれていた恋人が、いつの間にか自分を追い越してしまう。そんな主人公の焦りや苛立ちの描写にリアリティがありました。彼を器が小さいと非難するのは簡単だけど、こういう心理は多かれ少なかれ誰でも持つものではないでしょうか。「清水坂」と同じく、一度失った以上、二度と取り戻せないものもある。それでも、きちんと救いがあるラストが清々しかったです。
「源聖寺坂」・・・有名女性デザイナーが自宅で開いたパーティー。彼女の家には、源聖寺坂と少年を描いた絵が飾られていた。その夜、招待客の一人が、少年の霊を見たと訴える。この事態を受け、心霊探偵・濱地健三郎が謎解きに乗り出した。
後に『濱地健三郎の霊なる事件簿』で主役を務める濱地健三郎ですが、たぶんこのエピソードが初登場じゃないかな。探偵が登場するだけあって、他の収録作品と比べて謎解き要素が強く、ミステリー好きには嬉しい話となっています。読後感もほっこり爽やかだし、探偵役・濱地のキャラクターもなかなか魅力的。この人が出て来ると、「絶対悲惨な終わり方はしないだろうな」という安心感があります。
「口縄坂」・・・女友達とともに口縄坂を訪れた猫好きの女子高生・美季。この坂には多くの猫が住み着いており、その中に一匹、信じられないくらい美しい雄の白猫がいるという噂がある。その夜、美季は金縛りに遭い・・・・・
ぶっちぎりでお気に入りのエピソードです。ホラーと言いつつも抒情的な作品が多い本作の中、唯一、恐怖と絶望感を感じる化け物譚。その雰囲気と、猫というミステリアスな生き物がうまくマッチしていました。ホラー作品の中で<女子高生>というと軽率だったりミーハーだったりしがちですが、このエピソードの女子高生コンビは何一つ悪いことをしていない分、末路の悲惨さが際立ちました。
「真言坂」・・・翻訳家の「わたし」は、兄のように懐いていた「あなた」をストーカーに殺された。以来九年、「あなた」とは真言坂を上った所にある神社で会うことができる。生きていた頃のように他愛ないお喋りを楽しむ二人だが・・・・・
恋人同士ではなく、兄妹のように想い合っていた男女の距離感が切なくて切なくて・・・序盤の段階で「あなた」が死んでいることが分かる分、辛い展開が待つことは予想できるのですが、それでも最後に希望が待っていて良かったです。キーワードのように出て来る英文の使い方も秀逸!ここで出てくる真言坂は、天王寺七坂の中で私が唯一訪れたことのある坂なので、感情移入の度合も大きかったです。
「天神坂」・・・天神坂を下る途中にある割烹を訪れた濱地健三郎と若い女性。心のこもった料理に舌鼓を打ちながら、女性は自分が食事できることに驚いた。実は、女性はすでにこの世の存在ではなく・・・・・
心霊探偵・濱地健三郎再登場。この人が出てくると、物語全体に安心感が漂うんだよなぁ。念仏唱えるとか聖水撒くとかではなく、美味しい料理を供して幽霊を成仏させるというやり方に目からウロコでした。そして何より、割烹で登場する料理がどれもこれも美味しそう!私もいずれこの世を去る日が来たら、こんな風に美味しい料理を食べてから旅立ちたいものです。
「逢坂」・・・役者の駿介には、幽霊を見る能力がある。彼が再び見たいのは、八カ月前に事故死した劇団仲間のひとみ。だが、駿介の願いに反し、ひとみの姿を見ることはない。実は駿介の霊視能力には条件があって・・・・・
霊にまつわる部分もさることながら、駿介らが<俊徳丸>の役作りに奮闘する様子やこの土地への思い入れを語る場面、美しい夕日の描写などの方が印象的でした。<俊徳丸>は、故・蜷川幸雄さんが藤原竜也さん主演で演出した<身毒丸>というタイトルの方が認知度高いかもしれませんね。第二話「愛染坂」同様、クリエイティブな世界に身を置く人間の葛藤や苦しみが味わえます。
「枯野」・・・元禄七年、松尾芭蕉は諍いを起こした弟子の仲裁のため大阪を訪れる。そんな彼の前に現れる幻覚や、正体不明の影。不審に思い、怯える芭蕉だが、やがて自身の最期が近づいていることを悟り・・・・・
このエピソード以降は天王寺の坂から離れ、時代小説になります。行く手に延々と姿を見せ続ける謎の影。それが、自分の死の影だと気づいたら・・・考えただけで背筋が寒くなりそうですね。そんな怯えの描写が臨場感たっぷりですし、それを体験するのが松尾芭蕉というのは、歴女の私としては嬉しいです。読了後、芭蕉の辞世の句として有名な<旅に病んで夢は枯野をかけ廻る>の印象が変わりました。
「夕陽庵」・・・建長八年、式部省で働く男が難波を訪れ、崖の先に建つ庵に立ち寄る。そこはかつて藤原家隆が住んでいた<夕陽庵>。庵の手入れをする老人曰く、何人もの者たちが、すでに他界した家隆の姿をここで見かけているようで・・・
これまた時代小説です。物語開始の段階ですでに死んでいるにも関わらず、藤原家隆の存在感が凄い!在りし日の彼を語る老人の言葉、「つながっているのです」の台詞が味わい深かったです。こういう話を読むと、この世とあの世の境界線って実はないのかも、と思えてきますね。収録作品の中でも特にファンタジックな色合いが強いように感じましたが、鎌倉時代という時代設定が上手く作用していました。
最後の二話は時代小説ということもあり、好き嫌いがけっこう分かれるかもしれません。ですが、その部分を差っ引いても、大阪という町の陽と陰の部分を味わえる面白い作品でした。調べてみたら、天王寺七坂を巡るツアーってけっこうある様子。参加する時は、絶対に本作を携行しようと思います。
悲しく、切なく、しんみりと・・・度★★★★★
筆者の大阪愛がひしひし!!度★★★★☆
郷愁感さえ漂うようなオカルト的なミステリーでこれは面白そうです。
いまだに有栖川さんの作品はアンソロジーしか読んでいません。
これは是非とも読みたくなりました。
兵庫出身で大阪は割と身近な存在で、神戸より1ランク上の都会の雰囲気を楽しめる場だったので愛着も感じそうです。
しかし学生時代、福岡県で過ごしたこともあり福岡市内の雰囲気が懐かしくなりました。
関西に縁のある方なら、より共感度が上がるかもしれませんね。
私も仕事で大阪に出向く機会が多かったので、懐かしかったです。
有栖川さんは「火村英夫シリーズ」のようなミステリーが有名ですが、こういうホラーもなかなか面白いですよ。